2017.06.20
[こころのライフワーク]Vol.07
死にたくない、極楽浄土へゆきたくない
ご好評いただいている新宿瑠璃光院のコラム『白蓮華堂便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。
浄土真宗における悟りとは?
前回は、暴力団の準構成員だった男性の出家譚が、「発心即菩提」(ほっしんそくぼだい)という言葉を彷彿とさせる、というお話をしました。「発心即菩提」とは、「悟りを求める心が起こったなら、それは悟りを開いたのも同然である」というような意味です。そこで今回は、悟りについて考えてみたいと思います。
菩提という言葉を聞いたことがあるでしょうか。菩提(ぼだい)、とは悟りの別の表現です。浄土門ではお布施(喜捨、寄進)のことを菩提と言い習わしています。御喜捨をいただくと、「菩提をありがとうございます」と挨拶するのです。
例えば、本堂の修理などでお金を渡すことがなぜ「菩提=悟り」なのか? そうした疑問がおきないでしようか。私たち僧侶は何気なく使っている言葉の用法ですが、実は、ここに浄土門特有の「菩提=悟り」の考えがあらわれているのです。
浄土門は「里」の仏教、つまり在家仏教です。浄土真宗はその最たるものでしよう。在家者、つまり世俗のわれわれは、仏道に憧れを抱いても、仕事や家業、さらには温い家庭と別れ、「山」に籠もり悟りを開くために出家することはなかなかできません。また、いくら悟りを開こうと修行し学問をしても、大悟にいたることはおよびのつかないことです。
「知恵第一」と賞嘆された法然上人ですら、修行・学問によって大悟を得ることをあきらめられて、浄土門に帰依されたのですから。凡俗の私たちにはとてもかなうことではありません。
信心を得ても煩悩は消えない
出家はできない。また、いくら悟りを開こうと修行し学問をしても、大悟にいたることはできない。浄土真宗には、こうした断念のスタート台に立って、阿弥陀(あみだ)さまの本願をいただき、「至心信楽」(ししんしんぎょう)し、つまりその本願のお心をそのまま信じ、ただ念仏することで、お浄土に摂取、救い取っていただく ―― つまり、この世での菩提、悟りではなく、お浄土へいって、そこで悟りをいただくという考えがあります。
ですから浄土真宗では、信心を得たあとの煩悩を否定しません。事実、信心を得ても、煩悩が消えるわけではありません。煩悩を否定しないどころか、親鸞聖人は、もっと過激なことをおっしゃっています。
歎異抄(たんにしょう)にこういう一節があります。
久遠劫(くおんごう)よりいままで、流転(るてん)する苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだう(生)まれざる 安養の浄土はこい(恋)しからずそうろう
―― 何度も何度も輪廻転生(りんねてんしょう)で生まれかわって味わう苦悩の多いこの娑婆(しゃば)=人里を捨てがたく思い、まだそこに生まれていないけれど極楽(安養)浄土は少しも恋しく思われません ――
どこかひらき直ったような印象を受けませんか。
極楽よりも、この世がいい
地獄と極楽と娑婆(この世)とが三つあるなかで、あなたはどれを選ぶかと訊かれたなら、まず多くの方は、この世と答えるでしょう。
あの世を極楽浄土や安楽浄土、安養浄土などといいかえても、そこへはいきたくない。地獄よりはましかなあ、と現代人はいうかも知れないけれど、要するに聖人は「死にたくない、極楽浄土へゆきたくない」とおっしゃっているわけです。歎異抄や親鸞聖人のこうした率直さ、西洋思想流にいえば人間主義(ユマニテ)が際立っているところが、歎異抄や親鸞聖人が支持される理由の一端かもしれません。
歎異抄と同時代に成立した物語に平家物語があります。歎異抄と平家物語の冒頭の部分を比較すると、その隔絶した違いがわかります。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。
ぜひ味わって比較してみて下さい。
次回は、悟りと煩悩の関係について考えてみましょう。
【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。