2017.03.30
[こころのライフワーク]Vol.05
柳は緑、花は紅 ~現実をありのまま受け止める難しさ~
ご好評いただいている新宿瑠璃光院のコラム『白蓮華堂便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。
煩悩があるから、人は不安になる
前回は、ドイツのシュライエルマッハーという神学者の著書『宗教について、宗教蔑視者中の教養人に寄せる講演』と、金子みすずさん、榎本栄一さんの二人の詩人の作品を引用しながら、仏教的な視点について考えてみました。今回は、人の迷いはどこから生まれるのか、という点について考察していきたいと思います。
医学技術の進歩により、人間の生命が長寿の限界点にまで達する日がいずれくるでしょう。しかし、それは生物学(科学)的生命の到達であるだけで、人間としての「生」の到達でもなければ、それによって「生」が解明できるわけでもありません。しかも、人間はとても社会的な動物ですから、交通事故に遭遇しての死、エイズのような突如と現れて蔓延するウイルス病による死や自殺…、さらには、たとえ死にいたらなくても、ノイローゼといった厄介な心の患いが少なくなるとは考えられません。お釈迦さまは、人間の最大の苦として「生」(しょう)、「老」(ろう)、「病」(びょう)、「死」(し)の四つをあげられています。そうしたお釈迦さまの時代を生きた人々の生の実相と、寿命140年の時代を生きる人々の生の実相は、本来的に何一つ変わらないといえるでしょう。
お釈迦さまは、人間の苦悩がどのように成立するのかを考察した結果、「すべての苦悩の根源は無明(迷い)であり、その無明によって行(現象)が生じる」という答えにたどり着かれました。迷いは煩悩と不即不離(つかずはなれず)です。また現象は不安と不即不離にあります。
ですから、
煩悩(無明・迷い)→ 不安(行・現象)
このようにとらえなおすと、現代人のわれわれには、お釈迦さまのいわれた無明・行の内容がよく理解できるかも知れません。
「いまはいま」脚もとをよく観ることの大切さ
バブル経済が崩壊してから今日にいたるまで、日曜参禅会に姿を現すビジネスパーソンの方が多くなりました。一、二時間の坐禅が終わったあと、茶話会が開かれますが、この茶話会でしばしば持ち出される悩みが、「どうしてうちの会社は業績不振なのか」という質問なのだそうです。ビジネスとはおおよそ縁遠い禅宗のお師家(しけ)さんに、その種の相談をしてもお門ちがいだろうに……と、私などは思うのですが、そうでもないようです。相談したビジネスパーソンの方たちが、はっと思い当たる答えを得られることも多いと聞きます。
たとえば、先の質問に対するお師家さんの答えの一例に、こういうものがありました。
「バブルの時はバブルの時、いまはいま」
時にはこういう質問も出されます。
「営業計画と実績はどうしてちがってくるのでしようか」
その答えはこうです。
「計画は計画、実績は実績」
禅宗は、「いま現在」を重視します。それは、行(現象)は時々刻々、変化していることを訓(さと)すものだからです。しかし人間はそのことを忘れていたり、思いいたらなかったりします。「バブルの時はバブルの時、いまはいま」という訓しは、「すべてがうまくいっていたバブル時代は去ったのに、いまなおバブル時代のことが忘れられずにいる。時代はすでに変わってしまっているのだ」と指摘しているわけです。もっとも「バブル時代はすべてうまくいっていた」というのも錯覚、砂上の楼閣にすぎないのですが……。
「計画は計画、実績は実績」という訓しは、「計画は所詮、思惑の集合体でしかない、人間は思惑に思惑を重ねて、それがあたかも現実であるかのように思い込んでいる」という訓しです。別の言い方をするなら、人間は思惑という「現実」と、正真正銘の「現実」の二つを持っているということでしようか。とりわけ人間は、自分の思惑という「現実」を心の支えにしがちです。これを「現実」としているところに、不安が生まれるといってよいでしよう。
「計画は計画、実績は実績」というこのお師家さんの言葉は、「脚下照顧」(きゃっかしょうこ)の言い換えでもあります。これは簡単に言うと「脚もとをよく見なさい」ということです。
ありのままの現実と向き合う
柳(やなぎ)は緑(みどり)、花(はな)は紅(くれない)
これは中国南宋(13世紀)の禅僧・道川(どうせん)が、悟りの境地を頌(仏教の詩句。読み方は「じゅ」)であらわした言葉です。これを私が解釈しても興ざめなだけですから、よしておきましょう。その代わりに、これと同じ意味内容の和歌を紹介しておきます。「本来面目」という題で、道元禅師が読まれた歌です。
春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえて冷しかりけり
この歌の境地を十分に味わいつくすことが、すなわち、禅です。
過去にとらわれないこと。
あるがままの姿、正真正銘の「現実」をそのまま受け入れること。
どちらも、単純明快なようでいて、いざ実践するとなると案外、難しいものです。しかし、それができたとき、煩悩(無明・迷い)から自由になれるのです。次回も引き続き、煩悩について考えていきたいと思います。
【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。